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2018年7月20日金曜日

水害

西日本豪雨の被害に遭われた方々に心よりお見舞申し上げます。

また、水害のあとも連日の猛暑が続いています。被災地でなくとも毎日熱中症による犠牲者の報が届く異常事態ですが、後片付けの方々のご苦労たるや想像を絶します。くれぐれもお気をつけて。

ここでもちょっとだけ触れていますが、自分も水害に遭った経験があります。

自分が生まれ育ったのは熊本県南部の人吉市。盆地であり、台風の通り道でもあって、昔は夏になれば大雨が降り、川は増水し、家は停電し、必ずどこかで土砂崩れが起こる……という土地でありました。

実家は球磨川と支流の胸川が合流する地点のすぐ川べりに位置しており、胸川を挟んだ対岸には人吉城趾がありました。家の裏手には古い石積みがあって、その石積みの間の石段を通じて、ふだんは水位の低い河岸の遊歩道に降りていけるようになっていました。増水時はこの石段が一段一段隠れて水位が上がっていくのを家の廊下から眺めることが出来ましたが、上から数えてあと数段、ということはわりと頻繁にあり、子供心にはそれは「怖い」というより、スペクタクルでわくわくするような夏の定例イベントでした。

しかし、昭和40年(1965年)7月の洪水時にはついに水が最上段を越え、家の床上まで襲ってきました。今のようにテレビやネットの災害警戒情報が発達していない時代です。大雨は続いていましたが、その夜もとくに何の準備もせずにいつもと同じように家族4人一階の同じ部屋で就寝していました。その間に水位は音もなくかつ急速に上昇し、寝ていた蒲団の下の畳がプカプカ浮き出してやっと皆浸水に気づいて飛び起きたような有様でした。今回の豪雨でも見られた現象ですが、上流のダムの放水も加わった球磨川本流の急激な増水で支流への逆流が起きていたのです。合流箇所にあったわが家はその直撃を受けました。

すぐさま子供は二階に避難し、大人達は必要最低限度の大事なものをかき集めにかかりましたが、濁流の水位が上がるスピードは想像以上に早く、多くの家財道具や医療器具(実家は開業医でありました。大病院ではなく入院設備のない自宅兼用の小さな個人診療所です)、つい最近投資して揃えたばかりのレントゲン機材などが水に浸かりました。当時はまだ汲み取り式便所の時代であり、その内容物も巻き込んでの汚水が一階を満たしていきました。

二階は一間しかなく、ここに一家4人と看護士2名の計6人が閉じ込められ、今度は家の中の階段を一段一段水が上がってくるのを二階から眺める状況となりました。一時は上からあと2段まで迫った水は昼前になってやっと少しずつ引き始め、階段の下から3段目、床上50センチくらいになった段階で救助の人がやってきて、向かいの家へ渡したロープを伝わって脱出したのです(向かいの家は古い味噌醤油製造業であり、ゆるやかな傾斜地にうなぎの寝床のように建っていて、道を挟んだ玄関は我が家同様浸水していましたが、家の奥にある部屋や味噌蔵は被害を免れていました)。そのくらいの水位でも間の道路を流れる水の勢いはけっこう急で、僕は消防団員だかの人に背負われての避難でした。

大人達にとってはしかし、水が引いた後の炎天下の後片付けのほうが大変だったかもしれません。連日の疲労も影響していたのでしょう、母親は泥水の中での作業で破傷風予防のために打った注射でアナフィラキシー・ショックを起こし死にかけました(当時のワクチンは質があまり良くなかったせいもあります)。

まだ小2という年齢であり、恐怖や悲しみといった感情よりも非現実的な光景ばかりをよく憶えていますけれども「世の中は何が起こるかわからないし、それは実際ある日突然自分の身に降りかかってくるのだ」という想いは、それ以来ずっと心の根っこにあるような気がします。

被災地の一日も早い復旧をお祈り致します。

実家のあった人吉市新町あたり。現在は護岸工事がなされていますが、この写真の撮影時もけっこう増水していました。手前の濁流が球磨川、濁りの少ないほうが支流の胸川、左が人吉城趾。手前の草地は河岸ではなく中洲です。

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