since2008. 2017年からはtorimiki.comにUPしたBLOG, NEW RELEASE & BAND情報を時間差で時系列順にアーカイヴしています

2018年12月28日金曜日

『プリニウス』期間限定一挙無料公開

WEBマンガサイト「くらげバンチ」にてヤマザキマリ+とり・みき『プリニウス』の第1回〜53回の一挙無料公開が期間限定で始まりました(本日12月28日12:00より1月11日12:00まで


1/11には「新潮」での連載再開第1話=通算第54回が、雑誌掲載より一月遅れで公開になります。

【公開延長】11日正午までの予定だった「くらげバンチ」での第1〜53話公開ですが、好評につき、1月11日24:00まで延長となりました。

2018年12月27日木曜日

GQ版 遠くへいきたい第22回

今年最後のGQ板 とり・みきの『遠くへいきたい』第22回更新されました。

来年もまだまだ続く9コマワールド、ネタ切れで息絶えるその日まで…...よい年をお迎えください。

日経新聞 とり・みきの読書日記③ 『倫敦巴里』

日経夕刊の読書日記は最終回。最後は和田誠さんの『倫敦巴里』です。

「パロディーというのは元ネタが分からなければつまらないと言われもするが、そんなことはない。優れたパロディーはそれだけで面白く、オリジナルを読んでみようという気持ちにもさせる」

その後パロディよりもっとナンセンスな笑いのほうへ舵を切った僕ですが、70年代はこの本がバイブルでした。

巖谷邸訪問


昨日はヤマザキさんと都内の巖谷國士さんの御宅へうかがいました。

SNS時代になり、こちらが若い頃から愛読していたり、愛聴していたり、一観客として芝居を観に行っていたり、というような方と直で繋がってしまう事態が幾つか起きているわけですが、とりマリともに読者であった巖谷さんが『プリニウス』の感想をつぶやいておられるのを見た時は我が眼を疑ったものでした。


そういうわけで、僕などは目一杯緊張しつつドアベルを押したのですが、お部屋へ通され、まだご挨拶もそこそこのうちから、いきなり全開で本論突入、そのまま一気呵成に8時間喋り倒してしまいました(おもにヤマザキさんが)。

お部屋にはプリニウスの書斎もかくありといわんばかりの目を引く物、不思議な物、貴重な物、美術品、工芸品、書物が散在。ひとつひとつの謂われをうかがうだけでも楽しい時間でありました。

さて、現在我々の連載のプリニウス一行は地中海の島々を旅行中ですが、興味を持たれた方は巌谷さんのこちらの本がお薦めですよ。

2018年12月25日火曜日

エトナとクラカタウ

エトナとクラカタウ、欧州とアジアの有名大火山噴火の報が間をおかず入ってきました。描いているマンガがマンガですので火山情報はどうしても気になります。

クラカタウ、津波被害が山体崩壊によるものとすれば「島原大変肥後迷惑」タイプの津波ということでしょうか。ちなみに僕がクラカタウの1883年の歴史的大噴火を知ったのは、テレビシリーズ『タイムトンネル』の日本放映順における最終回(67年)で、でした

エトナはわりとしょっちゅう噴火しているわけですが、山腹からの噴火は十数年ぶりとのこと。『プリニウス』の第1回、エウクレスの回想もエトナ山の噴火から始まります。


2018年12月21日金曜日

小松左京とプラトンとプリニウス◎ギリシア取材①

現在発売中の「新潮」1月号に掲載されている『プリニウス』第54回「クレタ」では、プリニウス一行がかつてのミノア文明の中心地クレタ島に渡っています。


クノッソス遺跡でガイドとさんと話すヤマザキさん
これから一行はグラエキア=現在のギリシアを旅することになるのですが、おりしもグランドジャンプで連載中のヤマザキマリさんの『オリンピア・キュクロス』も古代ギリシアが舞台。というわけで新潮社・集英社双方の画期的相互協力により両作品の合同取材が実現、作者&スタッフチームで今年の5月にクレタ島を含むギリシア各地を巡ってまいりました。

このときの取材の模様は、ツイッターのプリニウスアカウントinstagramでは随時写真をUPしていましたが、当ブログではとくにまとまったページは作っていませんでしたので、これから物語の進行に合わせ少しずつ紹介できたらと思います(なので実際に回った順とは異なります)。


アテネからクレタへ渡る途中でティラ(サントリーニ)島を望む
ミノア文明は古代ギリシアの最盛期に先行して紀元前20世紀から栄えましたが紀元前15世紀半ばに突然終焉します。その要因として紀元前1525年頃に起きたクレタの北に位置するティラ島(サントリーニ島)の爆発的噴火によるティラ島自体の崩壊、及びそれに付随するクレタ島の津波や地震による被害、さらには火山灰による冷害を上げる説があります。

現在では文明終焉時期とやや隔たりがあることから「噴火(と津波)で劇的に滅亡」とは見なされなくなりつつありますが、衰亡のひとつの引き金にはなったかもしれません。

実は僕がこの説を知ったのは、小松左京さん自身がレポーターとして登場する日本テレビの特番「小松左京アトランティス大陸沈没の謎」(77年)と、そのムック本によってでした。

この頃の小松さんは『日本沈没』の大ヒットのおかげでなんでもかんでも「沈没」の冠が付いていましたが、この番組はお仕着せの企画ではなく、小松さん自身がこのベストセラーの印税を有意義に使えないかと学者チームを編成し、制作にもかかわった旨聞き及んでいます。


ボクシングをする少年(アテネ国立考古学博物館)
その番組とムック本で見て心ときめいた様々な遺跡や出土品を、40年近く経ってこの眼でナマで見られたのは、個人的には大きな感慨がありました。さらには回り回って今度はそれらを自分達の創作に生かすことになろうとは……歴史的事実や、それにインスパイアされたフィクションというのはけっして個々に存在するのではなく、長いスパンで相互に影響し繋がっていくものなのだ、と実感しました。

そういえば知的好奇心から火山に近づいていくプリニウスと『日本沈没』の田所博士は、どことなくキャラがかぶります。ヤマザキさんは僕ほど『沈没』の影響は受けていないので、意識的な造型ではないはずですが、それがまた面白い。そしてプリニウスや田所博士のがむしゃらな知的好奇心は、もちろん小松左京自身の姿とも重なります。そのことを記し留め置きたく、今回一行はティラ島には立ち寄らないのですが、数コマ、いにしえの大災害に触れるシーンを作りました。



というようなことを感じ入っていたら、ツイッター経由で小松左京ライブラリのアカウントから以下のメモ画像のご提供がありました。



ヤマザキマリ先生、とり・みき先生。 『新潮』での「プリニウス」の連載再開おめでとうございます。 クレタ島のお話ということで、神秘的な雰囲気が素晴らしいです。 小松左京もミノア文明に非常に関心を持ち、現地取材メモには、「牛の土偶」や「蛇と女の土偶」などの、走り書きが残されています。14:10 - 2018年12月20日 

そしてこれが今年の春にとり・みきとヤマザキマリが現地を訪れ実際に目にしてきた「牛の土偶」と「蛇と女の土偶」です。



さて、番組名にもなっているように、大爆発を起こして文明が崩壊したサントリーニ島は、海に沈んだアトランティス大陸のモデルではないかといわれています。典型的なカルデラ火山の島の形状も二重円だったとするアトランティスの描写と合致しています。

そして今週のグランドジャンプ掲載の『オリンピア・キュクロス』には、まさにそのアトランティス伝説を文献に記したプラトンが登場し、運動を経済再生や利権に利用しようとする勢力に真っ向から異を唱えています。これまでのプラトンのイメージを裏切るようなキャラ造型がさすがにヤマザキさんらしい。希代の哲学者プラトンは、実はアテナイで有数のレスラーでもありました。

かように両作品は時を超え、ゆるやかにリンクしているのです。もちろん現代の日本にも。

フリースタイル41



フリースタイル41「THE BEST MANGA 2019 このマンガを読め!」発売中。

ベスト10には関係なくいつものようにとり・みきの『ANYWHERE BUT HERE(遠くへいきたい)』も2本掲載されております。いずれもGQ版とはかぶらない新作です。

2018年12月20日木曜日

Red Day Evening

(タイトルは Dog Day Afternoonから)

アニバーサリー嫌いなので今まで慎重に目立たなくしていたが、ここへ来て思いがけぬ方々からついに還暦祝いのサプライズを受けてしまった。あと数日で逃げ切れたのに......とは思わずに、観念して大変ありがたく頂戴いたしました。

日経新聞 とり・みきの読書日記② 『復活の日』

日経夕刊「読書日記」2回目は小松左京『復活の日』

「当時は、これはちょっとリアリティーに乏しいと感じた登場人物に、自国中心主義の某国大統領がいる。今の時代には、ある人物とどうしても重なる。それが今回、この作品を挙げた理由の1つでもある」

正確には「登場人物」ではないのですけどね。

2018年12月13日木曜日

日経新聞 とり・みきの読書日記① 『マンガ家入門』

本日から3週にわたって日経新聞夕刊の「読書日記」を担当します。第1回目は石ノ森章太郎『マンガ家入門』

「こんなに才能がある人でもスランプに陥り、しめきりに追われて、時に体を壊す漫画家という職業にはとても就けないと10歳のぼくは思った」

GQ版 遠くへいきたい第21回

GQ版 とり・みきの『遠くへいきたい』第21回更新されました。

下北沢「新雪園」のチャーハンが大好きです。

2018年12月9日日曜日

筒井康隆展

長谷邦夫さん繋がりというわけではないけれど、年末進行と連載再開準備でなかなか訪ねられなかった世田谷文学館の筒井康隆展に滑りこみセーフ。



筒井さんの直筆原稿の美しさは多くの人が言及しているところですが、それにしてもこうして大量に貼り出されると、一種のアートというか絵画作品のようにも思えます。一度見ると忘れない特徴ある筆跡ながら非常に読みやすい。しかも訂正がほとんどない。日本一ビジュアル映えのする「見る」快感のある生文字原稿ではなかろうか。

2018年12月7日金曜日

『プリニウス』第54回 本日発売の「新潮」新年号で再開


お待たせ致しました。休載でご心配をおかけしましたヤマザキマリ+とり・みき『プリニウス』は本日12/7発売の「新潮」新年号より連載再開となりました。あらためて読者の皆様のご支援に感謝致します。


さて第54回「クレタ」は宮廷での大饗宴から始まります。そしてなぜか死んだはずのポッパエアが.……。 かたやプリニウス一行はアレクサンドリアを出て、かつてミノア文明が栄えた島クレタへ向かいます。

2018年12月5日水曜日

とり・みきのSF大将「竜のグリオールに絵を描いた男」


本の雑誌社より今年も『おすすめ文庫王国2019』が発売されました。

恒例とり・みきの『SF大将』、今年は「竜のグリオールに絵を描いた男」(ルーシャス・シェパード)です。

2018年12月3日月曜日

長谷邦夫さん

長谷邦夫さんが亡くなられた。

最初に氏のお名前を知ったのは「少年画報」に連載された『しびれのスカタン』で、たぶん連載第1回目から読んでいる。写真は同誌の付録マンガ(当時の月刊マンガ誌は付録の多さを競っていて、なかでも「少年画報」はそれが圧倒的だった。付録マンガも本誌に連載してる作家がさらに別の読み切りを描いていたりして、さぞや執筆状況は過酷であったろうと思う)。

表紙の赤鉛筆による落描きは当時2歳くらいの妹によるもの。『おそ松くん』のキャラは実は描いてみるとどれもむずかしいのだが、単純な幾何学図形で構成されているスカタンの顔は簡単で、よく描いていたのを憶えている。注目していただきたいのは作者クレジット。「赤塚不二夫・作 長谷邦夫・え」となっている。

実際には長谷さんがほとんど一人で考えて描いていたと思われるが、当時の『おそ松くん』人気はものすごく、本誌のクレジットでも下手すると赤塚さんの名前のほうが大きく喧伝されていた(一時期の監督名より「スピルバーグ製作」というコピーのほうが大きかった映画ポスターみたいなものだ)。小2とはいえマンガ読者的にはませていたので、これには当時からなんとなく違和感を覚えた。つまり、長谷さんの名前と作品に出逢った当初から、赤塚さんの影武者的な微妙な立場を感じ取ってしまった、というわけだ。


石森章太郎『トキワ荘物語』より、中央が長谷邦夫
さて、僕は子供の頃からなぜか「マンガ家が描く自画像」にとても惹かれていた。一種の商標みたいな物で、自画像が既に流通しているマンガ家の場合、他者によるそのマンガ家の似顔絵もそれを尊重し踏襲するようなところがあった。僕が今考えても少々ヘンな子供だったのは、マンガのキャラを描くのは不得意だったが、色んなマンガ家の自画像はソラで描けたことだ。

その頃はそんなむずかしいことは考えなかったが、自画像というのはマンガ家の自意識の究極の象徴でもある。作品をメタ化してしまう作者の登場は話を壊しかねない危険な表現なのだが、そこをも突き破って自分が出てきてしまうような強い自意識を持つ作家の感性に反応していたのかもしれない(手塚治虫〜石森章太郎〜永井豪〜吾妻ひでお〜ゆうきまさみ……そして今はヤマザキマリさんと、考えてみると僕の好きなマンガ家は本人登場頻度の多い人達ばかりだ)。


長谷邦夫『盗作世界名作全集 巻の3 三銃士』より自画像
とくに僕の小学校時代に活躍したトキワ荘〜スタジオ・ゼログループの人達は、お互いの似顔やそのバックステージを数多く作品に描いている。マンガ読みの青年、そしてちょっとませた少年少女の読者にとっては、このバックステージへの興味が、作品そのものと同じくらい、マンガ熱を高める重要な燃料となっていたことは記しておいてもいいかもしれない。少なくとも僕はそうだったまあしかし、マンガに限らず、音楽でも特撮でも、そういう興味を持つ人は割合的にはやはり少ないのかもしれない。ただそういう人達はやがて作り手側に回るような気もする)。

その中で長谷邦夫さんの自画像や各作家による似顔は非常に特徴的で、僕などはお写真より先に、ご自身や他の作家の作品でウロチョロする「マンガ俳優」として認識していたほどだった。

その小学生ながらのバックステージへの興味で石森章太郎『マンガ家入門』(65年秋田書店)を読み、さらには赤塚不二夫『シェー!!の自叙伝』(66年華書房)を読んだわけだが、後者を赤塚さんのゴーストとして書いていたのも実は長谷邦夫さんだった。この著書の中で、僕は初めて「パロディ」という言葉を覚えるのだが、そのパロディに関する記載(盗作との違いなど)も、今読むとまさしく長谷さんらしい主張ではあったと思う。

赤塚さんのゴースト的な仕事では一時期の『天才バカボン』のメイン・アイディアはもちろん、長谷さん自身が絵も赤塚さん名義で描かれているものが幾つかあるが(唐沢なをきさんも指摘していたように)高井研一郎さんや北見けんいちさんよりもご自身のタッチやアクが強く出てしまい、子供ながらに一目で「これ長谷さんが描いているな」とわかるので、読者としては当惑していたのを覚えている。

70年代以降、赤塚さんはマンガよりもご本人の露出や活動が増えていき、僕も以後の作品のあまりよい読者とはいえなくなっていく。これと反比例して歳相応にサブカルチャーへの興味は増していき、フジオプロのサブカル(当時はそんな言葉はなかったが)部門を一手に担当していた長谷さんの影響を、まだこの時点でも長谷さんがやっているとはあまり認識せずに、僕は大きく受けていくことになる。


表紙は横尾忠則、付録は山下洋輔・中村誠一・古澤良治郎・
渡辺文男によるソノシート「ペニスゴリラアフリカに現る」
具体的には、長谷さんが実質的な編集長だった……しかしこれまた表向きには「赤塚不二夫責任編集」と銘打っていた「まんがNo.1」という雑誌を通じ、山下洋輔、三上寛、井上陽水、筒井康隆、赤瀬川原平、若松孝二という人達の仕事やSF全般、のちのちには「全日本冷やし中華愛好会」やタモリの芸能活動へ繋がる興味が開かれることとなった。今思えば懐かしくもまた、ちょっと恥ずかしいはしかのような若気の狂騒ではあったが。

ちなみに「マンガNo.1」にはヌードグラビアなども載っていたため、父親に見つかって(父親は当時としてはマンガに理解のある人間だったが)処分されたという負の想い出もある。写真の「マンガNo.1」は後年、古本屋で再入手したもの。

それからだいぶはしょるけれども、SNS時代の走り、mixiを通じて僕は長谷さんとときどきお話しするようになり、2012年のイベントでは、僕が舞台でギターを弾いて「桜三月散歩道」を歌い、セリフ部分の朗読を作詞者である長谷さんにお願いする、ということが実現した。そのときのことは以前のブログに書いたのでご参照下さい(→こちら)。

写真はそのウチアゲのときのもの(右は映画評論家の松島利行さんで、松島さんも今年亡くなられた)。お目にかかっていきなり赤塚さんとのデリケートなお話を訊くのもためらわれたので、このときはその周辺の話題で終わったのだが、それでもディープな裏話をたくさんお話しして下さった。
水声社『パロディ漫画大全』(2002年)にいただいたサイン

それから一年後、赤塚さんのお話を色々うかがう前に長谷さんは倒れられWEB上の交流も途絶えた。謹んでご冥福をお祈り致します。

2018年11月27日火曜日

伝奇マンガの巨匠と

11/25、川崎市民ミュージアムで行われた星野之宣さんと諸星大二郎さんのトークイベント(開催中のビッグコミック50周年展の一環)に行ってきた。

締切中だったが、このお二人の作品なくしては自分も『石神伝説』を描いておらず『プリニウス』へ繋がる道もなかった。そのくらい自分にとっては存在の大きいお二人が人前で会するイベントもそうそうない。しかも訊き手が夏目房之介さんとあっては矢も楯もたまらず1時間半ほど抜けだしてトンボ帰りした次第(でも編集さんからはやっぱり怒られました)。

実は僕は星野さんの『宗方教授伝奇考』潮漫画文庫第一集に解説を書かせてもらったことがある。そこではお二人の作風の比較のようなことをやってしまっていて畏れ多いにもほどがあるのだが、今回久方ぶりに読み返したら、そう外したことは書いていない気がしたので、もし機会があれば読んでみてください。

さて、そういう創作の秘密的な話が、お二人のお口から語られるか……とは最初から全然思っていなかった。諸星さんとは何度かお目にかかっていたし、また過去のインタビューやコメントなどを読む限り、少なくとも諸星さんがその手の話をなさることはないだろう、という予測はついていた(それが諸星さんのナチュラルボーンな資質なのか、そう見せかけてわざとはぐらかしているのかはいまもってわからないのだけれど)。

右より星野之宣さん 諸星大二郎さん
夏目房之介さん 僕 飯田耕一郎さん
そう予測済みではあったが、にしてもお二人とも想像以上に寡黙! 諸星さんはともかく、星野さんもまた具体的な創作の話はあまりなさらない。もしかしたら諸星さんに合わせて、つまり、自分だけ喋りすぎることを気になさって、あるいは一種のライバル意識からそうなさっているのかな……と俗物のマンガ家は邪推したりしていたが、とにかく、饒舌すぎるとりマリとはそこがいちばん違う。そして、自作を語らないのはやはり格好いいなあ、と。

数少ないご発言の中から当日いちばん心に残ったのは諸星大二郎さんの次のお言葉 

「作品なんて無責任に描いてるんだから、あとから人に『責任とれ』とかいわれても困る」

そういうお二人を相手にイベントを成立させた夏目さんのMC手腕にも感心。夏目さんがいちばん嬉しそうでした。

2018年11月22日木曜日

『プリニウス』の連載再開が決定


『プリニウス』はこれまで「新潮45」で連載を続けていましたが、同誌の休刊を受け「新潮」にて連載を再開することとなりました。また今後は「新潮」掲載後、一定の期間をおいて、WEBマンガサイト「くらげバンチ」でも各話をUPしていく予定です。

【作者のコメント】

――ヤマザキマリ

漫画家になるずっと以前、イタリアで画学生をしながら母親に時々送ってもらっていた文芸誌のひとつがこの「新潮」でした。絵と文章が、まだ自分の中では表現として繋がっていなかった頃のことです。若かった私はイタリアの文学者達に日本文学についての無知を指摘され、安部公房や三島由紀夫を始めとする様々な作家の書籍を日本から送ってもらっては、貪るように読みました。その時に受けた強烈な知的触発が、文章から画像を生み出していくという現在の私の漫画技法の礎となっています。 「新潮45」の休刊は唐突な顛末ではありましたが、これはこれで有り難いご縁だったと受け止め、プリニウスの連載当初に抱いていた思いどおり、文芸という領域でも捉えていただけるような漫画作品を描いていくことができれば本望です。


――とり・みき
まずは再開かなって嬉しい。いち早くお申し出をいただいた編集部と、休載の間ご心配とご支援のお言葉をいただいた読者の皆様に感謝致します。自分は文芸誌であれ情報誌であれマンガ誌であれ、極端にいえばずっと「場所を選ばず」仕事をしてきました。なので今回も気負わず淡々粛々とこれまで通り続きを描くのみですが、とはいえ「新潮」初のマンガ連載だそうで、何であっても通念を塗り替えて顰蹙を買うのは横紙破り冥利に尽きます(そんな冥利があるのか)。


【「新潮」編集長・矢野優のコメント】
文芸誌は文明誌でもありたい――『プリニウス』連載で114年越しの願いが実現して幸福です。

2018年11月21日水曜日

手塚治虫生誕90周年

恒例の年末進行に諸々イレギュラーな仕事が重なり、おそらく今年いちばん身動きがとれない綱渡り状態の中、11月20日帝国ホテルで行われた手塚治虫生誕90周年記念会に行ってまいりました。手塚先生がまさにそういう人だったので許してください>お待たせ中の関係各位。

みなもと太郎さんと島本和彦さん
山下達郎さんの『アトムの子』を歌うアトムロボット、みなもと太郎さん、島本和彦さん、ヤマザキマリさん、士貴智志さん、中村光さん登壇によるマンガ家トーク、そして手塚眞監督の『ばるぼら』(主演:稲垣吾郎さん、二階堂ふみさん)発表と盛りだくさんな内容でしたが、なんといっても会場に集ったベテランから同世代、後進まで、多くのマンガ家さんとお話しできたのがいちばん楽しかった。

自分ももういい歳ですが、子供の頃から読んでいた先生方を眼前にすると、とたんにその頃に戻ってミーハーな気分になってしまう。


これはなんだろう。ヤマザキさんも「仕事で世間的には人気のあるタレントさんに会ってもまったくそうはならないのだが、自分が読んできた作家・マンガ家、聴いてきたミュージシャンを前にすると、一気に心ときめいてしまう」といっていましたが、それはたぶん、ご本人の「お名前」だけでなく、その人が作った作品世界もまた脳内に一瞬で拡がってしまうからでありましょう。心ときめくかどうかは、やはり自分の嗜好や感覚で選んで耽溺した、その人の作品あってこそです。


そうした世界を各自持っている人達が一同に会しているのですから、それぞれの読者だったこちらは大変です。


また、これは以前から思っていて当日もヤマザキさんとつくづく話したことですが、ベテランの(少なくともこちらがファンでお目にかかったことがある)マンガ家の人達は皆、謙虚で驕らない。えらそうにしていない。逆に当代の売れっ子である若手のマンガ家も、先達には敬意を持って接している。パワハラによるものでもなく下心もない、作品とそれを作った人への自然発生的な敬意。それは同世代のマンガ家の間でもそうです。


永井豪先生と藤子不二雄A先生の間に写り込むプリニウス作者二人
もちろん、こちらも年期が入っていますからマンガ界の暗黒面も数多く見てきてますが、こういうところはマンガ家ってピュアで健全だな、とあらためて思ったことでした。

とはいえ、この写真はどうか。それぞれもう、そこそこ名のあるマンガ家なのに、この素人ぶりはひどすぎる。

しかし、この催しで個人的にいちばん感慨深かったのは、秋田書店時代の初代と最後の担当編集者氏と再会したことかもしれません。二人とも手塚番でもあったので来ているとは思っていましたが。

当時の編集部では、手塚番はたいてい独身で、かつ新人担当を兼ねていました。通常1人の編集さんで作家2〜3人を担当するのですが、手塚番は下手すると週のうち5〜6日は手塚プロ泊まり込みになるので、帰宅はおろか、中堅やベテランのちゃんとした作家さんを並行して担当することがままならなかったからかもしれません。

当然、新人のこちらとのうちあわせは減るわけですが、しかし僕は悲惨な目に遇っている彼ら手塚番から漏れうかがう「マンガの神様」の実態に、当時は興味津々でした(それこそ暗黒面です)。神様に及ぶべくもありませんが、僕もまた担当氏には多大なる迷惑をかけ、かつトラブルも色々ありました。

もしかしたら当夜の再会も手塚先生のお導きだったのかもしれません。

2018年11月9日金曜日

2018年11月7日水曜日

フランシス・レイ

フランシス・レイが亡くなりました。


60年代後半から70年代にかけては、ラジオのキー局でも地方局でも必ずおもにリクエスト葉書(&多少の意図的操作?)による洋楽のベストテン番組がありました。70年代後期から80年代のベストテンは海外と情報やタイムラグがなくなっていき、ほぼUSAチャートやUKチャートと変わらないラインナップになっていくのですけど、70年代前半、つまり僕が中学や高校の頃の洋楽ベストテンというのは、日本で「洋楽」として発売されたEP盤すべてを対象としていて、基本はアメリカのヒット曲なのですが、その中にはヨーロッパ(とくに伊・仏そしてオランダ)の曲や、日本だけでシングルカットされた曲や、ときには日本で「洋楽」の体で作られた曲や、イージーリスニングや、そしてしばしば映画のサウンドトラック盤(もしくはそのカバー競作)がごった煮のような状態で、その順位を競っていました。

キングレコードのSEVEN SEASのように、主にサントラEP盤に特化したレーベルもあり、アルバム=LPのサウンドトラック盤はお小遣いが足りなくてなかなか買えない中坊にとっては大変ありがたかったのです。

その時代、もっともチャートに頻繁に顔を出す映画音楽家がヘンリー・マンシーニとバート・バカラックとフランシス・レイとミシェル・ルグランでありました。なかでもフランシス・レイは、映画はさほどヒットしなくても、彼のEPサントラ盤は必ずチャートインするほど人気で、とくに『ある愛の詩』のメロディが世を席巻してからは、逆に「好きな音楽家は?」と訊かれると洋楽ファンとしてはフランシス・レイとはなかなか答えがたい雰囲気すらありました(甘すぎ&メジャーすぎて)。

とはいえ、僕は中学時代に放送部をやっていたので、彼らの曲は校内放送のBGMとしてユースフルで大変お世話になりました。このことはこのエントリーでもちょっと触れています(→GQ版『遠くへいきたい』第2回

その思い出もあいまって個人的ベストはやはり『白い恋人たち』。あと流れ者』と『さらば夏の日』。どうしても70年前後の曲が多くなる。彼が脚光を浴びた『男と女』(66年)を観ることができたのは、上京して名画座というものに出逢ってからでした。