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2017年5月29日月曜日

敬語を使わない外国人

相方のヤマザキマリさんのブログ 「”敬語を使わない外国人”という解釈での吹替え、ほんとにもういいかげん改善してくだされ」を読んで、色々考えるところがありました。まずはリンク先をお読みください。

ここに書かれていることは、僕も昔からずっと思っていました。70年代のUFO番組の頃からある演出で、そのわざとらしいアテレコぶりは初期のタモリ氏などのモノマネのネタにもなっていたと思います。

日本人の勝手なイメージもあるだろうけど、ときにはわかってて確信犯的にやっている場合もあるでしょう。しかし、面白さを通り越して相手の国や当人に対して無礼になっている、と感じるものも多い。作り手の意図に反し、見ている側は笑えないばかりか不快になってしまいます。中にはボイスオーバーの下から聞こえてくる原語が「全然違うこといってるだろ!」とわかるケースもあります。

この種の過剰吹替が頻出する情報系バラエティというのは、フィクションとドキュメンタリーの中間に位置するものだと思いますが(これは吹替に限らず)作る側はたぶん6:4から下手すると7:3で前者寄りに「テレビ的にわかりやすく、面白おかしくまとめる」のが当然だと思っている。でも視聴者は、たぶんその逆の割合でけっこう「事実」と思って見てしまっている、という気がします。

視聴者に事実と思われたら思われたで「演出成功!」と作り手側は思っていそう。

まあ、お笑い系のバラエティでは僕もあまり硬いことはいいたくないですが、旅番組やドキュメンタリー、ときには報道番組でも外国人の吹替が過剰に横柄になっていることが、ままあります。こうなるともう論外。

しかし、吹替映画のことを書いたり取材したりしてる僕は、ここで「待てよ」と思ってしまうのです。

よくよく考えてみると、この「キャラクターをわかりやすくするため、オリジナルより過剰な方向にアレンジする」というのは、通常の劇映画の吹替でも頻繁に行われてきた方法でした。吹替映画の演技や演出は、しばしばオリジナルよりオーバーアクト気味になってしまっている。そしてそれはアンチ吹替の人を生む要因にもなっています。

我々は一部の芸人さんが吹替のモノマネをするのを見て笑いますけれども、このときも二つの点に留意しなければなりません。

それが特定のキャラや特定の声優さんのモノマネであれば、モノマネされるくらい独自の口調をあみ出した声優さんへは拍手したくなります。とくにナレーションやアニメキャラの場合は、一からその声優さんが開発した技や芸といえますから賞賛に値するでしょう。

いっぽうで、特定のキャラではない、いわゆる「アテレコ調」であったり「ありがちな海外ドラマ風」とでもいうべきモノマネもあります。ここで笑いが起きるのは、あまりナチュラルではないわざとらしい喋り方が「吹替特有の抑揚」としてお客さんに認知されてしまっている、という残念な証左ともいえます。

いや、僕もついつられて笑ってしまうのですけど、同時に「ああ…確かにそうだよな」というイタイ思いもわき上がる。それだけその芸人さんのネタには批評性があるわけで、そういうところを突く眼力にはむしろ感心します。

コメディ作品のギャグの翻案においても、これはけっこう奥深い問題です。役者が大真面目に端正に演じてこそ、より、おかしみが湧いてくるタイプのコメディもあるはずなのに、どうしても日本側でよけいなギャグをつけ加えたり、ことさらオーバーアクトにしてしまう傾向がある。もちろん、そういうオリジナルを逸脱する吹替の達人もいて、視聴者もあえてそれを楽しむ方向もあるわけですが、笑えればいいけど、失敗してる例も多い。

これには媒体や時代の違いもあります。

昔の粗いテレビ画面と音質で見る外国ドラマは、いまの、細かい表情の機微までわかるハイビジョンの大画面で見るより、よりはっきりしたキャラ付けが必要だったでしょう。また現代でも、チャンネルを変えさせない工夫が必要なテレビ版の吹替と、外国の映画会社のチェックも入り、客をある意味拘束して見せる劇場版の吹替とでは、ちょっとノリが違ってきます。

例えば、元の映画を観ているときには、この人はゲイなのかな……くらいのニュアンスで描かれているのが、吹替ではことさらオネエ言葉を強調している場合があります。また田舎者の喋りも、昔はズーズー弁に置き換えたりしていましたね。

とはいえ、現在はテレビ吹替自体が激減しているので、逸脱の自由度が高かったそういうものを懐かしむ声があるのもまた事実です。吹替はやはり最終的にはオリジナルに敬意を払い、より原典に忠実に再現されるのが本来と考えますが、かつてのそういう試行錯誤や工夫を今の価値観で全否定するのもどうかとは思います。

この辺は「吹替の帝王」サイトのコラム「欧米人の吹替は実はアニメだった?」にも以前書いたことがあるので、機会があればご一読ください。

さてしかし、たいていのバラエティや旅番組では、これまで書いてきたようなことなどあまり深く考えずに、もはや単なる積年の「慣習」で過剰にフレンドリー、もしくは横柄にやってるような気がします。それがお約束、そうするものだという思考停止状態に陥ってしまっている(そして、こういう鈍感さは、外国人だけではなく、LGBTの人々や女性差別などにも無意識に発揮されていると思います)。

予算の問題もあるでしょう。翻訳者一人雇うだけで人件費が発生します。ロケ現場で現地のコーディネーターから聞いた簡単な訳を、さらにディレクターがちょっと盛って台本が決定されている、ということもあるかもしれない。

あるいは先に日本側のおおまかな「台本」があり、現地の人の絵はそこに当てはめてるだけだ、という極端なケースだってありそうです。

ともかく、劇映画であれ、情報番組であれ、基本は「元が丁寧なら日本語も丁寧に、元が横柄なら日本語も横柄に」という当然すぎるくらい当然のことでいいと思うのですけどね。

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