9月19日、日本マンガ塾《飯田うさ爺のトークライブ》にて、共作者のヤマザキマリさんと『プリニウス』第3巻刊行記念トークを行ってまいりました。マンガ塾での話ということで、とくに合作の具体的方法について実例データなどを見せながら解説しましたが、マンガの「背景」についても、三者間でけっこう奥深い話が出来た気がします。
せっかくですから会場で語ったことをブログでもちょっとメモ書きしておこうと思います。
マンガには緻密な背景などなくても、簡単な線で、その物語世界を雄弁に伝えてくれる作品がいくらもあります。
また、ある程度背景が入っているマンガでも、主人公が中心となって物語を切り開いていくマンガの場合、背景がそのシーンの舞台説明以上の任を越えた自己主張をしすぎると、確かに読みづらくなる場合があります。わかりやすさやマンガのスピード感を維持するには、適度な、ときには思い切った背景の省略も必要になります。
しかし、すべてのマンガがそういうキャラ寄りの方法論で描かれているわけではありません。背景がキャラと等価、ときには背景の表現そのものが物語を「語る」作品もあるのです。司会進行の飯田耕一郎さんがその例として準備されてきたのは、つげ義春や宮谷一彦や大友克洋の作品でしたが、僕もまったく同じことを考えていました。
彼らはマンガにおける背景の意味を大きく拡げてきた先達です。個人的にはそれらを「読みづらい」と思ったことはありませんでしたし、むしろ背景もまた「演技」するのだ、と感銘を受けたものです。そしていまもそういうタイプの作品はあると思います。キャラの邪魔にならない背景を心がける場合もあれば、あえて人物を風景の中に埋没させたい作品もあるのです。
『プリニウス』 の場合は、登場人物の行動や見た眼を通して、読者もまた2000年前の古代ローマを旅しているかのように思ってほしくて描いている作品です。つまり、ここでは背景もまた主人公の一人なのです(なので、キャラ中心に物語が展開していくマンガを期待する向きには、少々読み方にとまどう方も出てきてしまうかもしれません)。そういう意図を踏まえて背景の描線も決定していますし、省略も極力しないようにしているのです。
そもそも実際に描いている作者二人には、どちらが主でどちらが従という考え方は元々ありません。お互いがお互いの絵や役割に敬意を持って描いています。
そして単行本も3巻目を数えた現在は、もはやキャラと背景を分離して捉える考え方すら、我々にはあまりありません。実際、担当する作画もクロスオーバーしていますし、融合度も進んでいると思います。
よくよく考えれば、キャラと背景を必要以上に分離する考え方は、プロダクション制になって、先生はキャラだけ、背景はアシスタント……というような制作体制があたりまえになってから大きくなった視点のような気がします。全部を一人で描いている時代は、キャラも風景もひとまとめにしての絵の魅力がもう少し語られていたような……。
我々は二人で分担して描いてはいるのですが、マンガのあり方としては、一人の作家が総ての絵を描いていた時代のマンガを念頭に、それに少しでも近づけたら、と思って作業しています。
ですので(読者の感想は自由で、何がダメ何が正解というのは一切ありませんが)作者としてはキャラはどう、背景はどう……という分離した書き方よりは「『プリニウス』 の絵」「一体化したとりマリの絵」あるいは「二人で一緒に造り上げている世界観」に対する感想をいただけると、より嬉しく思います。
関連リンク
飯田うさ爺のトークライブ『プリニウス』第3巻刊行記念トーク
とり・みき先生&ヤマザキマリ先生『プリニウス』第三巻刊行記念トークライブ
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