since2008. 2017年からはtorimiki.comにUPしたBLOG, NEW RELEASE & BAND情報を時間差で時系列順にアーカイヴしています

2017年5月29日月曜日

敬語を使わない外国人

相方のヤマザキマリさんのブログ 「”敬語を使わない外国人”という解釈での吹替え、ほんとにもういいかげん改善してくだされ」を読んで、色々考えるところがありました。まずはリンク先をお読みください。

ここに書かれていることは、僕も昔からずっと思っていました。70年代のUFO番組の頃からある演出で、そのわざとらしいアテレコぶりは初期のタモリ氏などのモノマネのネタにもなっていたと思います。

日本人の勝手なイメージもあるだろうけど、ときにはわかってて確信犯的にやっている場合もあるでしょう。しかし、面白さを通り越して相手の国や当人に対して無礼になっている、と感じるものも多い。作り手の意図に反し、見ている側は笑えないばかりか不快になってしまいます。中にはボイスオーバーの下から聞こえてくる原語が「全然違うこといってるだろ!」とわかるケースもあります。

この種の過剰吹替が頻出する情報系バラエティというのは、フィクションとドキュメンタリーの中間に位置するものだと思いますが(これは吹替に限らず)作る側はたぶん6:4から下手すると7:3で前者寄りに「テレビ的にわかりやすく、面白おかしくまとめる」のが当然だと思っている。でも視聴者は、たぶんその逆の割合でけっこう「事実」と思って見てしまっている、という気がします。

視聴者に事実と思われたら思われたで「演出成功!」と作り手側は思っていそう。

まあ、お笑い系のバラエティでは僕もあまり硬いことはいいたくないですが、旅番組やドキュメンタリー、ときには報道番組でも外国人の吹替が過剰に横柄になっていることが、ままあります。こうなるともう論外。

しかし、吹替映画のことを書いたり取材したりしてる僕は、ここで「待てよ」と思ってしまうのです。

よくよく考えてみると、この「キャラクターをわかりやすくするため、オリジナルより過剰な方向にアレンジする」というのは、通常の劇映画の吹替でも頻繁に行われてきた方法でした。吹替映画の演技や演出は、しばしばオリジナルよりオーバーアクト気味になってしまっている。そしてそれはアンチ吹替の人を生む要因にもなっています。

我々は一部の芸人さんが吹替のモノマネをするのを見て笑いますけれども、このときも二つの点に留意しなければなりません。

それが特定のキャラや特定の声優さんのモノマネであれば、モノマネされるくらい独自の口調をあみ出した声優さんへは拍手したくなります。とくにナレーションやアニメキャラの場合は、一からその声優さんが開発した技や芸といえますから賞賛に値するでしょう。

いっぽうで、特定のキャラではない、いわゆる「アテレコ調」であったり「ありがちな海外ドラマ風」とでもいうべきモノマネもあります。ここで笑いが起きるのは、あまりナチュラルではないわざとらしい喋り方が「吹替特有の抑揚」としてお客さんに認知されてしまっている、という残念な証左ともいえます。

いや、僕もついつられて笑ってしまうのですけど、同時に「ああ…確かにそうだよな」というイタイ思いもわき上がる。それだけその芸人さんのネタには批評性があるわけで、そういうところを突く眼力にはむしろ感心します。

コメディ作品のギャグの翻案においても、これはけっこう奥深い問題です。役者が大真面目に端正に演じてこそ、より、おかしみが湧いてくるタイプのコメディもあるはずなのに、どうしても日本側でよけいなギャグをつけ加えたり、ことさらオーバーアクトにしてしまう傾向がある。もちろん、そういうオリジナルを逸脱する吹替の達人もいて、視聴者もあえてそれを楽しむ方向もあるわけですが、笑えればいいけど、失敗してる例も多い。

これには媒体や時代の違いもあります。

昔の粗いテレビ画面と音質で見る外国ドラマは、いまの、細かい表情の機微までわかるハイビジョンの大画面で見るより、よりはっきりしたキャラ付けが必要だったでしょう。また現代でも、チャンネルを変えさせない工夫が必要なテレビ版の吹替と、外国の映画会社のチェックも入り、客をある意味拘束して見せる劇場版の吹替とでは、ちょっとノリが違ってきます。

例えば、元の映画を観ているときには、この人はゲイなのかな……くらいのニュアンスで描かれているのが、吹替ではことさらオネエ言葉を強調している場合があります。また田舎者の喋りも、昔はズーズー弁に置き換えたりしていましたね。

とはいえ、現在はテレビ吹替自体が激減しているので、逸脱の自由度が高かったそういうものを懐かしむ声があるのもまた事実です。吹替はやはり最終的にはオリジナルに敬意を払い、より原典に忠実に再現されるのが本来と考えますが、かつてのそういう試行錯誤や工夫を今の価値観で全否定するのもどうかとは思います。

この辺は「吹替の帝王」サイトのコラム「欧米人の吹替は実はアニメだった?」にも以前書いたことがあるので、機会があればご一読ください。

さてしかし、たいていのバラエティや旅番組では、これまで書いてきたようなことなどあまり深く考えずに、もはや単なる積年の「慣習」で過剰にフレンドリー、もしくは横柄にやってるような気がします。それがお約束、そうするものだという思考停止状態に陥ってしまっている(そして、こういう鈍感さは、外国人だけではなく、LGBTの人々や女性差別などにも無意識に発揮されていると思います)。

予算の問題もあるでしょう。翻訳者一人雇うだけで人件費が発生します。ロケ現場で現地のコーディネーターから聞いた簡単な訳を、さらにディレクターがちょっと盛って台本が決定されている、ということもあるかもしれない。

あるいは先に日本側のおおまかな「台本」があり、現地の人の絵はそこに当てはめてるだけだ、という極端なケースだってありそうです。

ともかく、劇映画であれ、情報番組であれ、基本は「元が丁寧なら日本語も丁寧に、元が横柄なら日本語も横柄に」という当然すぎるくらい当然のことでいいと思うのですけどね。

2017年5月26日金曜日

カール

しかしカールのように、昨日まで当然のようにあった物が一晩で売場からもネット販売からも消えてしまうという不条理はあることなのだな。

商品でなくて目に見えない類のものでもそういうことはあるのかもしれない。権利とか空気とか。

2017年5月23日火曜日

ロジャー・ムーア追悼

ロジャー・ムーアを知ったのはITC制作の『セイント 天国野郎』(65年日テレ)という義賊、かつ貴族的大泥棒の話で、ちょっとSF風味もあるシリーズでした。線画のオープニングアニメも印象に残っています。吹替担当は近藤洋介氏。ムーア主演のテレビシリーズはその前に『アイバンホー』(58年KRT、声は矢島正明氏)がありましたが、僕は未見。

その後、伝説のシリーズ『ダンディ2 華麗な冒険』(74年NET)でトニー・カーティスと組んで迷コンビぶりを発揮しますが、このときの吹替は佐々木功氏。セイントのイメージを引きずり英国貴族出身という設定で、吹替では「殿様」と呼ばれていました。また、佐々木氏の吹替もその上品さをうまく醸し出していました。

そして……3代目ジェームズ・ボンドとして登場したムーアの声を担当したのは『ダンディ2』で相方のトニー・カーティスの声を努めた広川太一郎氏でした。『セイント』の近藤洋介氏はのちにテレ朝でショーン・コネリーの声を担当していますし、コネリーはまた若山弦蔵氏の持ち役としておなじみですが、フジ版の『北海ハイジャック』ではムーアの声をその若山氏が担当するなど、007絡みで色々めぐりめぐっています。

余談ですがフジ版『北海ハイジャック』では、サッチャーがモデルの女性首相の声を土井たか子さんが担当しています。当時はサッチャーもおたかさんもブームでしたし、ワンポイントの登場でストーリーには絡まないので、これはまあテレビ版のお遊びとしては許容範囲でしょうか。政治信条的には真逆の二人だったのが面白いというか、ちょっとシャレも効いています。

初期007シリーズ演出担当の佐藤敏夫氏にお話をうかがったところ、007ではいつもの広川氏のお遊びを封じて徹底した二の線で通してもらったとのこと。しかしセーブしているがゆえに、ときおり放たれる洒落っ気十分のムーアお得意の捨て台詞的ジョークが、吹替でも最大の効果で生かされており、これまた広川氏の代表作のひとつとなりました。

以上吹替史の観点からのロジャー・ムーア追悼でした。

シネマトゥデイの訃報記事

2017年5月22日月曜日

こうの史代原画展とハイテクオジギビト

昨日は渋谷タワーレコードのこうの史代原画展へ行ってきました。人の原画というのは常に美しく映りますが、でも展示を見て泣きそうになったのはちょっと珍しい体験。


そして公園通りの騒音と振動値がデジタル表示されるオジギビト。





 

2017年5月18日木曜日

プリニウス第39回

『プリニウス』第39回が掲載された「新潮45」6月号が発売されました。

前半は前回に引き続きカルタゴが舞台。謎の子供の出自が少し明らかになります、後半ではローマのフォロ・ロマーノに戻り不安定な政情を描きます。

澁澤龍彦ふたたび

河出書房新社より文藝別冊『澁澤龍彦ふたたび』が発売されました。『プリニウス』連載中の我々二人も寄稿しています。

以下河出書房の当該サイトより

没後30年、いま新たに澁澤が甦る。東雅夫篇澁澤コレクション、澁澤完全ガイド、主要著作ガイド、平野啓一郎、ヤマザキマリ、山崎ナオコーラ、嶽本野ばら、市川春子、三原ミツカズ、滝本誠など。

ヤマザキさんのブログも参照

2017年5月16日火曜日

日下武史さん

日下武史さんは声優としてもテレビ初期から活躍されました。一世を風靡したのは61年から64年までNET(現テレビ朝日)で放映された『アンタッチャブル』のロバート・スタック(エリオット・ネス)の吹替で、僕は一部を70年代の深夜の再放送で観ました。

長尺物では若い頃のリチャード・ハリス、そして86年の日曜洋画劇場『アマデウス』ではマーリー・エイブラハム(サリエリ)を担当。後者は話題のアカデミー賞作品でもあり、局としても番組としても力を入れた名吹替で、演出が佐藤敏夫、脚本が額田やえ子と万全、声優も端役まで実力者がそろえられていました。

主役の3人は、サリエリ=日下武史、モーツァルト=三ツ矢雄二、コンスタンツェ=宮崎美子……新劇畑のベテラン・アニメの人気若手声優・テレビドラマ出身で声の仕事未経験、という組み合わせで、とくに男性二人の対比は「サリエリにとって理解しがたい新人類のモーツァルト」という映画の内容を、吹替のキャストでも表現する形になっていました。こういう作品意図を汲んだ吹替はたいがいよい出来になります。

吹替を離れ、上京前、受験勉強をやっている頃の僕は、午後11時を過ぎるとちょっと電波が入りやすくなってくる福岡の民放FM局にダイヤルを合わせ、FM東京(当時)系列の番組をよく聴いていたのですが、なかでも日下さんの担当するハードボイルドな探偵物の朗読劇「あいつ」(のちの「マンハッタン・オプ」)が大好きでした。

朗読と少ないSEとニューヨークをイメージさせるジャズやフュージョンの音楽だけで構成されているのですが、時間帯と制限の多い聴取環境もあいまって、福岡や東京をも飛び越え、異国の都会の、それも夜の世界に僕をいざなってくれました。その脚本を描いていたのが若き矢作俊彦氏であったと知るのは、だいぶ後年のことです。

2017年5月13日土曜日

TATSURO YAMASHITA PERFORMANCE 2017

既出の通り今回のツアープログラムの冒頭メッセージをとりマリが仰せつかり、先日NHKホールに行ってまいりました(仰せつからなくても行くんですけどね)。

ツアー中なのでネタバレは控えますが、随所で思い入れのある曲や真摯なMC、また個人的なシンクロニシティにも出くわし琴線触れまくりの3時間半。歌と演奏が見事なのはいつもながらですが、当夜はとくに素晴らしいパフォーマンスだったように思います。クラッカーを持っていき忘れたのが、唯一の不覚。イラストを提供したツアーグッズにもたくさんの方が列を作って並んでいただいており感謝感激。